問題の場所を聞いた剣帝は車よりも脚の方が早いとスクアーロと連れだって、街を歩く無辜の人々の頭上を駈けた。道路に連なる多種多様な車体を尻目に屋根伝いに数キロの距離を渡った二人は、膚に伝わる物騒で静かな喧噪に標的を捉えたことを知り足を止める。

「ああ、アレッジオか」

少しばかり開けた裏路地を古びたアパルトメントの屋上から見下ろして、男はいささかがっかりしたようだ。

「知って、んのかぁ?」

時間制限、否。命数制限つきの任務に流石に急いだらしい剣帝の全速力へついていくのは、スクアーロでも骨が折れた。問いかけは酸素を取り込もうと僅かに乱した息の合間からだった。

「エンリコの側近の一人だよ。まぁ、それなりに腕は立つ」

「へぇ?」

剣帝にとっては話にもならないといった風情の言い方だが、テュールがそれなりというのだがら、普通に考えてかなり手こずる相手なのだろう。

経験値積みに誰彼構わず彼曰くの決闘をふっかけているスクアーロの目がぎらついた。それを見咎めた男は、あっさりと釘を刺す。

「お前が出るのはダメだよ、スクアーロ。9代目がわざわざ私を指名した意味が無くなってしまう」

「わぁってらぁ」

「ならいいけれどね」

わかっていると言いつつ不満そうな発展途上の剣士に肩をすくめて、男は鞘に収めていた白刃を引き抜いた。

「さて、そろそろ行こうか。ザンザスの限界が来たようだ」

眼下でがくりと膝をついた子供へ視線を向けて、スクアーロは男とのんびり会話していた自分にちょっと後悔した。

アレッジオという男を相手にするには、子供はまだ力不足だとありありと見て取れる。

「もっと早く助けてやった方が良かったんじゃねぇのかぁ?」

「あまり楽をさせすぎると、いつまでも手がかかるままだろう?はやく手を煩わせなくなって欲しいからね」

「うおおい、横着にも程があんぞぉ!!」

穏やかにかなり薄情な科白を吐くのに批判的な声を上げたスクアーロに背を向けて、剣帝は大地との数十メートルの距離をゼロにした。

 

唐突に己と標的とを遮るように降り立ったその際だつ白銀に、気配すら感じ取れなかったアレッジオは激しく狼狽した。ついで男の顔を脳内の情報と合致させた瞬間、知らず一歩退いた。彼は己の力に自信を持っていたが、力量というものも充分に理解していた故に、速やかに己の敗北を予測し、怯え、絶望すらした。そんな彼を剣帝は屠殺される食肉牛を見るかのような眼差しでもって見やり、滲むように笑う。だがテュールが彼に向けた意識はそれだけで、後は第三者の出現に折ってしまった膝を無理矢理伸ばして立ち上がる子供へと移していた。

「よく持ちこたえるものだ」

ふらふらと何度も身体を傾がせては踏鞴を踏んでとどまるザンザスに感心したとでもいいたげにテュールは咽喉を震わせる。

以前まみえた時と変わらずに振りまかれる、世界に対する稚い敵愾心に今は暴力的な殺気を混ぜて、静かなたたずまいながら戦意一つ見せずに場を支配する剣帝を睨み付けるその気概だけを見ても将来有望。やがては自分を愉しませてくれる実力の持ち主になるだろうと値踏みして、剣帝はザンザスを助ける価値があると認めた。

だが、今はまだなにもかもが足りない。

テュールに向けてその力を宿す手を振りかざしたのすら、子供の未熟さを露呈している。背を向けて逃げるべき所を、あえて向かってくるのは愚挙。逃走が最善の策だと、矜恃の高すぎる子供には認められないのか。それとも、それすら許されないのだろうか。

「まあ、スクアーロでも向かってくるだろうがね」

背を向ける臆病を蛇蝎の如く忌み嫌い侮蔑する、未だ剣たる強さへの執着しかしらない少年。

敗北するならば死を。

生きるならば勝利を。

無様に負けてなお生にしがみつくのを何よりの恥だと嫌悪すらする傲慢な剣士。

あの子は退くことも覚えるべきだと一人ごちつつ、ザンザスが放つ憤怒の炎を受ける前にその懐に入り込んで、テュールは躊躇いなくその鳩尾を殴打する。助けに来た相手に暴れられては面倒。身動きを取れ無くさせるのには、これが一番いいと判断を下した結果の所行である。

ぐらり、と傾ぐ小さな体が転倒するのを片腕を捕まえて防ぎ、剣帝は背後に音もなく着地した少年を振り返った。

「う゛お゛お゛い!!」

救助対象への暴挙に呆れたようなスクアーロにむかって、テュールは気絶させた子供を放り投げる。

「スクアーロ、持ってなさい」

「う゛お゛お゛い!ちょっと待てぇ!!」

「ちゃんと見てるんだよ」

己に向かって見事なまでの放物線を描いて放り投げられた子供の体躯を抱き留めて、抗議の声を上げるスクアーロに剣帝は柔らかな、だが捕食する対象を捉えた肉食獣のごとき獰猛な笑みを口唇に刻んで見せて、ごくごく自然に地を蹴った。

「少しは愉しませてくれるかな?」

アレッジオへの囁きは切り裂かれた空気の悲鳴に呑まれ消え、ただ剣戟のみが響き、それが一方的な闘乱の始まりの合図となった。

 

まるで猫が鼠をいたぶるのを見るようだ。

剣帝を相手取るということに戦う前から絶望している男に、勝つ要素など皆無。それでも男は決して弱くはない。今のスクアーロの実力なら、楽にとは行かない程度の力を持っている。

「あの化け物野郎がぁ」

そう毒づくスクアーロは、しかしこの上なく嬉しげに愉しそうに笑っていた。

出来るならば今すぐその美しい技を見せる剣帝に躍りかかって殺し合いたいのだと、テュールによく似た獰猛な笑みが語る。

あれはいずれ己が食らうべき獲物だと、少年の内に宿る血に飢えた存在が舌なめずりをする。

その一挙一動一投足を見逃すまいと、スクアーロが貪欲に銀灰の瞳を輝かせる最中、その腕に抱いた体躯が身じろいだ。まだ動けるのかと少し感心しながら視線を落とした先で、子供が光炎を宿した手を握りしめ、まだ闘おうとしているのを認めてスクアーロは些か慌てた。

「う゛お゛お゛い!!無茶すんなぁ!」

抱いた身体は子供にしても高すぎるほど高く、限界を超え発熱しているのが布越しにもありありと感じ取れる。これ以上の肉体、ないし能力の行使は危険極まりないと素人でさえわかる。現に耐えきれなくなった肉体は、その力を放つ機関である手を内部からずたずたにしていた。

血管が破裂しているのだ。

しかし孤高の子供はスクアーロの声如きには耳を貸さない。いまでさえ眼球に痛みすら与える炎の光輝がさらに増していくのを押しとどめようと、スクアーロは咄嗟にその手を握りしめた。

己の手は焼け爛れるのも構わず、ただ子供がこれ以上己の力で傷つかないように。

「もう、大丈夫だぁ」

そうして、どこまでも柔らかにザンザスの鼓膜を震わせた音。

一切を拒絶する炎にすら躊躇わず、触れてくる感じるはずのない他者の体温。

もうずっとあり得なかった誰か。

その正体に猜疑を抱き、困惑しながらも、すでに心身の限界に達していた子供は、欲求を抑えつける余裕すらなくただ求めるままに全力で縋り付いた。

その温もりを見失うまいと、痛いほどに抱くと言うよりも手の中に握りしめるかのようなザンザスの背に腕を回してやって、スクアーロはきつくきつく、その熱に振り回され魘される身体を抱きしめる。

闘争に遊ぶ剣帝すら忘却し、ただ傷ついた子供を包んでいたスクアーロは、ふいに掛かってきた重みにその意識が失われたのを知って、そっと強張るほどに固く抱いていた腕を外しザンザスを覗き込んだ。その子供らしくない険しい、剥き出しの殺気に彩られた濃い疲労と追いつめられたもの特有の焦燥を滲ませた面貌。渦巻く怒りにも似た、これは慟哭だ。苦しくて苦しくてたまらないのだと、嘆き藻掻き苦しんでいる。

いたましいのとも違う、ただ酷くやるせない。吐息を吐いて、少年は何かを堪えるように寄せられたザンザスの眉間の皺をそっと押さえて軽くもんでやる。

一向に離れる様子のない手に、同年代の子供達よりはがっしりとした、しかし己よりも幾分小さな体を今度は緩く抱き返し、忙しなく荒く脈打っていた心臓がが徐々にスピードを落とし、とくとくと規則正しいテンポに変わっていくのに耳を澄ませていると、ふいと背後から暢気な声が掛けられた。

「おや。随分懐かれたね」

先頭の場にいるというのに、自分があまりに無防備を晒していたことに大きく舌打ちし、スクアーロは跳ねるように振り返りざま剣を抜き放ち今更ながらだが威嚇する。

しかしその片腕は当然の如くザンザスの体躯を支えるように回され、ひしりと身を寄せ合っている。そんな二人の姿は、捨てられたダンボール箱の中の子猫のようにテュールにはうつった。

拙い力で己よりも小さな存在を守ろうとする少年に、なにかが変わり、胎動を始めたのを感じた剣帝は過ぎる予知夢にもにたそれに一瞬目を細め、けれど何事もなかったようにいつもの微笑を浮かべて鞘に収めた剣を握る手を伸ばす。

「代わろう」

その腕を見やり、ついで自分にしがみついたままの僅かに安らいだ子供の相貌を見下ろし、スクアーロは断固と首を振った。

「いい、俺が運ぶ。こいつ、離れねぇしよぉ」

テュールに向けていた剣をしまい、ザンザスを慎重に抱き上げて厚みのどうにも薄い痩身では身軽く、とは言えないがそれでも危なげなく立ち上がり、スクアーロは歩き始める。

一見細く頼りない、その実引き絞られた筋繊維に覆われる強靱な力を秘めた背を追いながら、時を早めた終わりの日を思い、寂寥とそれを大きく凌駕する込み上げる凶暴な歓喜のまま、剣帝は忍びやかに笑った。

 

 

ザンザスを引き渡し軽くなった両腕の手持ちぶさたに、なんとなく手首を回しながら自身の息子を万感の思いを込めて抱く父親の姿を見つめる。

「ザンザス」

壊れ物を扱うかのように、そっといとおしげに頬を撫でるその手は真実なのに、それでもきっと永遠に届くことはないのだと、スクアーロはなんとなく悟った。

なぜならば愛しさを滲ませながら、その瞳は諦念と絶対の距離と冷たさをもって、子供を見つめていたから。

親と子の間に引かれた境界線。

それを敷いたのは他でもないこの父親であり、決して越える気も崩す気もないのだ。

いつか轟く子供の悲鳴のような咆哮にそれは亀裂に換わり、決定的な離別がやってくるのは避けがたい未来であると確信したスクアーロは。

ただ己のためにしか在ることを知らなかった傲慢なる鮫は。

 

ならばその時、俺は憤怒と絶望に泣き叫ぶこの子供の隣に在ろうと心に決めた。

 

愛情なのか慈しみなのか、満ちた感情は判然とせず、ただ強いつよい思いであり、憐憫ではないことだけが確かで、それだけでよかった。

 

絶対の忠誠をもってお前に従い、この身を最強の剣となしてただ尽くそう。

 

 

そうして、人々は見る。

さだめられた道筋を辿り、銀色にぎらつく傲慢を刃とし、灼熱の憤怒が吹き荒ぶ様を。

 

 

 

(あまりにも優しいこの感情の名を、恋とは呼ばない)

 

 

 

 

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